盧溝橋事件後に本格的な戦闘が行われても、1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告をおこなわなかった。これは「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間、双方が望んだからである(宣戦布告をおこなった場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となる)。宣戦布告は、これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされた。なお、日本軍が駐兵していた法的根拠は義和団の乱の講和条約である北京議定書に基づいている。
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大日本帝国
1937年(昭和12年)7月7日に発生した盧溝橋事件の報を受けた近衛内閣は万一に備え、在地日本人及び現地駐留軍5千6百名を保護・支援するため[8]、11日に関東軍・朝鮮軍・内地師団の華北派兵を閣議決定し、事件を北支事変として華北へ出兵(増員)することを発表した。同日現地において停戦協定が締結され、事態収拾に向う動きが見えたことから内地師団の動員は見合わせとなったが、13日に北京市(北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。17日には蒋介石が日本の出方次第では徹底抗戦する意志を表明し、19日、現地停戦協定には中国政府の承認が必要として、日中両軍の同時撤退案と外交交渉案を通告すると共に、武力行使の可能性を宣言する。20-21日にかけて近衛内閣及び参謀本部は内地師団の派兵を巡り二転三転するが、対支一撃論を唱える拡大派の軍幹部の主張に加え、関東軍・朝鮮軍の華北到着により緊張の高まった現地での国民革命軍の挑発行為(20日の中国軍による蘆溝橋城発砲事件、25日の郎坊事件、 26日の広安門事件など)によって日本国内の対中世論が硬化し、日本人居留民保護という名目も加わって、27日に内地師団の派兵を決定。